看護部長から無職に
あけましておめでとうございます。

2021年1月1日 「キラキラこころ」 第2?3?の人生の始まりです。
沢山の方との素敵な出会いがあることを楽しみに、マイペースにスローライフを楽しんでいきます。
とは言え、2020年を振り返らなければ、前に進めないので、無職になった経緯をおはなししますね。
「コロナ・COPD・うつ病」・・・病気の説明は「私の病気」で説明しますね

昨年(2020)は、年明けからコロナで、世間も、私の勤めていた病院でもテンヤワンヤ
感染対策臨時委員会を招集し、手袋や、マスクの確保に悪戦苦闘、看護師の常識では、マスクや手袋は、1患者・1手技交換で、院内感染防止をしていました。
それがマスクは1日1枚、病院なのに発熱者は診察できない(コロナ対策・発熱外来を持てなかった)面会制限に奮闘。
政府の発表、保健所、マスコミからの情報も日々変わり、当然部長の私は、委員会、情報収集とスタッフへの伝達、家族の対応に追われ、日々の業務×3倍くらいの仕事量だったように思います。
そんな中、耐え難い息切れ、倦怠感を感じ、自院でCT検査をしたら、COPD(慢性閉塞性肺疾患)があることがわかり、肺機能検査結果が83歳
え~~私まだ55歳ですけど、肺はあと数年で寿命をむかえる?

ガーン でも仕事は待ったなし、かなりがんばって仕事に行きました。
えっ コロナになったら間違いなく重症もしくは、死んじゃう?
恐怖の中、病院という職場に、指揮官として、管理者として、私に甘えは許されない、みんなの手本に、みんなが安心して働けるように、それが私にしかできない仕事。
でも、体は拒否反応を起こし始めた。38度を超える高熱、出勤停止コロナ検査へ、結果はマイナス。でも私の心の中は、コロナ=COPD=死ぬ 常に恐怖が付きまとい、とうとう体だけでなく、心が潰れました。
眠剤・安定剤の過剰服薬(死にたかった訳ではありません)完全にうつ病です。
当時の私は、使命感につき押され、がむしゃらに、ひたすらに、頑張っていた。24時間・360日仕事人間が、ポキンと折れた、心療内科で3か月の自宅療養が必要診断され、休職に入りました。

この時には、辞めることは考えていないので、3か月後に復職。
病気とうまく付き合いながら、前ほどには動けないけど、私にしかできない仕事がある。
と、またがむしゃらに仕事をする。息切れ、倦怠感は復職してすぐに再発し、2か月後に不明熱が出始める。10日間の休職、小学生の学校行きたくない病ですね。
出勤すると30分おきの下痢、部長室での仕事もきつくなり、退職願を出しました。
12月末の退職を申し出たのですが、10月に入ってから書類の整理、部下たちへの引継ぎをしているうちに、部長室に戻ると勝手に涙が出る、だれかに首を絞められているかの様な息苦しさに襲われ、廊下を歩く部下たちの背中が遠くに見て、どんどん自分が小さくなるのを感じました。

10月のある月曜日の朝、全く声が出なくなり、『終わった』涙が勝手にどんどん流れ、事務長へラインで再々再休職を連絡し、心療内科へタクシーで直行。どっさり薬をもらい、職場に診断書を送ってもらいました。
12月末の退職まで出勤することなく退職(( ノД`)シクシク…死ぬまで看護師として、、いつまで仕事するの?白髪の腰の曲がった80歳で現場に出たいと思っていた。
「私ここで殉職するから」「労災証言してね」なんてことを考えてた。まさかこんなに早く現場を離れなくてはいけないなんて全く考えてもいなかった。病気の進行も気になるけど、55歳住宅ローンを抱えて、あと何年生きるんだろう?
一応看護師なんで、自分の抱えている病気の末路は見えているだけに、恐怖が付きまとい、考えてはいけないことを考えたり、ネットで調べまくってまた落ち込んだり、鬱病も良くなるはずないですね。
呼吸器内科の先生から「現場での看護師のイメージを今は忘れて治療に専念してください。酸素療法に入ってしまったら、外出も自由に出来なくなるので、少しでも肺に負担を与えない生活を考えましょう。」
心療内科の先生からも同じように「今まで頑張りすぎたのだから、とにかく心と身体 を休めてからゆっくり生活を立て直しましょう。」まさかのドクターストップです。

ということで、今無職
24時間自分の時間ができたと!前向きに頑張りすぎないよう!今年はゆっくり!
今までしたことのないことで、今に自分にできること見つけたいと思います。
今できることは、ブログを通して、私と同じ病気や鬱病と向き合っている人、その家族の方に少しでもわかりやすい情報を発信すること、看護師目線と当事者目線で、病気の解説ができたら、少しでも誰かが何かのヒントになってくれたたら、私はこの場所で看護師として生きていきます
